第一章 相談メール

木蘭国際法務研究所の端末に、一通のメールが届いた。
送信者はユリ。件名はシンプルに「相談」とあった。

香坂湊がメールを読む前に、その椅子の背もたれにふんぞり返った男が、先に口を開いた。

「この相談者、目が左下。疑ってないし、夢見てる。……占えるね」
「やめろ。メール文を見ただけで手相見るな」
「いいから貸して。はい、手、出して」

香坂はめんどくさそうに手を差し出す。
黒い手袋に覆われた指先が、するりと香坂の手のひらをなぞった。
その瞬間、手袋の内側にごく微かに白煙が灯る。

「──この人、記録に残らなかった恋をしてる」

「俺の話じゃない」
「うん、でもお前も同じ線出てる」

香坂はため息をつき、画面に視線を戻した。
「はじめまして。構文相談というものが、どういうものかよくわかりません。ただ、ひとつだけ聞きたくて――」

依頼者の文章には、独特の切迫感があった。

「誰かを記録していない人の記憶って、その人の中では、ほんとうに存在しなかったことになるんでしょうか」

「私、名前も告げませんでしたし、そもそもあの人の周囲にいた”支持者のひとり”にすぎなかったと思います。でも、私は覚えてるんです。彼の声の出し方も、夜にだけ香る香水の種類も、誰にも見せなかった寝癖のかたちも。なのに、それを話せる場所がないんです」

香坂は画面をスクロールしながら、隣の藤本に内容を読み聞かせた。

「忘れられたことを、ちゃんと忘れたくて。でもその人が話していた言葉のリズムが、いまだに耳の奥で鳴ってるんです」

藤本はすっかり興味を持って立ち上がり、香坂の肩越しに画面を覗き込んだ。

「なーんだ、記憶の残響じゃん。……これ、掘れるね」


第二章 初期構文解析

夜の記録室で、香坂と藤本は依頼者の記憶構造を分析していた。

「……また”名前のない彼”か」香坂が呟いた。

「特徴は多いけど、情報が一方向。しかも主観強すぎ」藤本が端末を操作しながら応えた。

「構文化難しいな。記憶の主語がずっと”彼”だ。自分を”記録してない側”だと信じ込んでる」

「あるある。支持者構文。勝手に記録から弾かれたと思ってるパターン」

香坂は画面を見つめ直した。そして、ある可能性に気づく。

「……でも、この語尾の残し方、”陽翔”じゃない?」

その名を口にした瞬間、銀器の蓋がわずかに揺れた──。

藤本が振り返った。「はあ!? あのキラキラ構文野郎? さすがに、恋人じゃないだろ」

「恋人じゃない。”支持者”。本人のほうはユリの存在すら覚えてない」

藤本の表情が変わった。「……うわ、……それ、いちばん刺さるやつじゃん」


第三章 忘れられた記憶の発火

ユリの記憶は、夢か現か定かでない場所から始まっていた。どこかの駅前だった気がする。暗くも明るくもない、曇天の夕方。

通行人の列がぼやけ、視界の中心だけ白く飽和した瞬間──ひときわ通る声があった。

「好き、で始まる社会。
投票じゃなくて“ときめき多数決”で決めるの。
“この子の言葉、ちょっとドキドキした💕”が一票。
──え?
なんで引いてんの? 前の制度だってたいがいだったよ?」

少し高い、陽気なトーン――だが語尾だけが急ブレーキを踏む。真剣さを薄い冗談で包む、その一瞬の軋み。

ぬれた土の匂い――と同時に、胸の奥でパチッと静電火花。焦げたキャラメルの苦甘さが喉に貼り付き、呼吸が引っかかった。

「なんかさぁ、知ってる?
昔の国って、“賢いフリした人”の話ばっか通ったんだって。
だから俺、今ちょっとだけ“バカのフリ”してるの。」

その声が、なぜか胸の奥で跳ね返った。

(……何、言ってるんだろう)

(でも、なんで、涙が出るんだろう)

彼の前に少しずつ人が集まり、いつの間にか彼との距離が離れていく。

人混みの向こう、傘と傘のあいだに揺れる影。けれど、その言葉のリズムだけが耳に残った。

早口じゃないけど、止まらない。途切れそうで、途切れない。息継ぎのたびに、香水と夏の汗の匂いが混じる。


第四章 構文室での発見

「トリガー:音声残響。呼吸パターン分析。やっぱり”あいつ”だ」香坂が確信を込めて言った。

「陽翔の構文、正規には残ってないけど、あいつ、”話すときの心拍リズム”、他と違うんだよ」藤本が過去のログを調べながら説明した。

「保存数、過去72件。どれも”他人の中でしか存在してない彼”」

「なのに、全部”香る”んだよな……銀器の蓋、開けてなくても、な」

香坂は構文ログに新しい項目を追加した。

「構文:非相互記録。感情帰属:片側のみ認識。現象判定:記憶対象の未記録構文に対する感情残響」

「状態名:《記録されなかった恋》」


第五章 宵方、構文室

依頼者ユリは、「これで最後です」と小さく頭を下げ、匂封銀器(リキッド・セント・シールド)をひと時だけ手に取り帰っていった。構文は保存されなかった。名前も出なかった。彼女の語った相手は、終始「彼」だった。

「……記録対象に、名前なし」香坂が報告した。

「構文としては未成立。けど、残るな」藤本が感慨深げに言った。

「ああ。残る。本人が”忘れていい”と言った記憶ほど、記録から消えない」

香坂は手元の銀器に、”彼”のリズムだけを模倣した、匂いのない香りを仕込んだ。

「湊クン、それ何のつもり?」

「彼女の中にしかなかった”誰か”を、俺たちだけでも、知っていたという証拠」

「それ……バレたら怒られるやつ」

「バレなきゃいい」

香坂がふっと笑った。


第六章 VOID No.6バーカウンターにて

数日後、VOID No.6のバーカウンターで陽翔が鼻歌まじりに構文メモをいじっていた。紙ナプキンに何か殴り書きしている。

「なあ藤本、俺ってさ……”好き、で始まる社会”とか言ってたこと、ある?」

「うん、いつも言ってる」

「マジ? じゃあさ、それで誰か救えたことある?」

藤本は少し考えてから答えた。「……わかんねぇけど、忘れられなかった奴は、いたんじゃねぇの?」

二人の間に、一瞬だけ沈黙が落ちる。
店内の音楽が切れ、冷蔵庫の低いノイズだけが残る。
その微かな振動の中で、何かがまた、揺れていた。


エピローグ 音のない花

非公開ログ補記:

  • 保存香:無香型・構文同期不可
  • 匂名称〈非公開〉:Silent_Blossom_footfall

📌香坂の非公開メモ:

記録されない恋がある。名前も知らせず、記憶にも残らない一方的な想い。

けれど、その感情は確実に世界のどこかに存在していて、誰かの心の奥を揺らしている。