序章 記憶の砂粒
放課後の校庭。薄いオレンジの夕焼けが校舎を染め、風に揺れる髪が頬を撫でる。
ルネは手の中の砂時計に触れるたび、その景色が風のように通り抜けた。
笑い声、土の匂い、肩を叩かれた感覚──サヤだ。明るく、活発で、優しかったあの頃の親友。
だが、砂粒は途中で“フッ”と消える。
木蘭国際法務研究所。
藤本が砂時計を逆さにすると、落ちる砂粒が途中で虚空に溶けた。
「オフライン構文汚染。経過ログを喰ってるな」
香坂が波形を睨む。「どうせ“砂”は記号だろ。何を象徴してる?」
「空白願望。サヤを失った痛みを消したくて、関連記憶を削りすぎた」
「要はバックアップ無しでrm -rf走らせてると」
「在庫処分品の神様だ。保証書無し。壊れたらこっちの責任」
香坂は眉をひそめた。「そんな神、俺なら返品する」
第一章 侵食する記憶
それは、ある雨の日に始まった。砂時計の中の砂が、いつもより激しく消え始めた頃だった。
ルネは自分でも気づかないうちに、サヤとの思い出を消そうとしていた。あの校庭の記憶も、笑い声も、すべて痛みの源だから。しかし、記憶を削った空白に、別の何かが入り込んできた。
ルネが砂時計を手に取った瞬間、「存在しないはずの感情」が流れ込んだ。
──自分が誰かを殺した記憶。
血の匂い、骨を折る感触が指先に焼きつく。
テレビをつけると、サヤの笑顔がニュースで映し出される。
「3年前に亡くなった研究者の女性の死因について、新たな情報が入っています」
その声が、頭の中のサヤの声と重なった。
「……返して。私の体を返して」
心臓が激しく鼓動し、手が震える。
「私の体を返して」
今度ははっきり明確な声として耳に届いた。
幻聴ではない。確信があった。
視界の端に、笑うサヤ、泣くサヤ、自分を見下ろすサヤが重なった。耳元で声がする。
記憶の境界が曖昧になり、自分の行動すら信じられなくなった。
ルネの一人称が「私/僕/あたし」と揺らぎ、自分がどこまで自分であるのか曖昧になっていく。
鏡を見るたび、そこに映るのは自分なのかサヤなのかわからない。話し方、仕草、好きだった食べ物まで、すべてが混じり合っていく。
翌日、街を歩いているとき、すれ違った男性の怒りが突然自分のものになった。理由のわからない激情に駆られ、気づけば壁に拳を叩きつけていた。手の甲に走ったのは既に古くなった傷。その感覚は、まるで誰かの傷をなぞったようだった。
第二章 分裂する意識
「ルネ?」
振り返ると香坂が立っていた。
ポケットから小さなバッジを取り出す。
「君、サヤの名前を一度も呼ばなかったな」
「……」
「君の依頼書、二人称が抜けてる。もう“私”と“君”を分けてないんじゃないのか?」
血に塗れたサヤの顔が蘇る。ルネを見て微笑みかける。
「返して。あなたが奪った私の体」
崩れそうになるルネを、香坂が支えた。
「ルネ、よく聞け。今の声はサヤじゃない。君が発した声だ」
「……君は、自分を罰するために、わざとその声を残してるんじゃないのか?」
第三章 揺らぐ境界
「サヤの残留感情だ。サヤはあの禍の時、MNRI(記憶応用研究機構:Memory and Narrative Research Institute)の実験に関わっていた」
香坂が調査結果を手短に教えてくれた。
サヤは意識を複数のタイムライン分岐に分散する実験を行っていた。砂時計を通じて、ルネの脳内でサヤの同時アイデンティティの一部が目覚めていた。
木蘭国際法務研究所に戻ると、藤本がソファにかけたまま匂封銀器を弄んでいた。
「削った記憶の代わりに、別の何かが入ってきたんだ」香坂が端末の波形を指差した。「空白を嫌う性質があるんだろうな」
「壊して整える神だ。アブラクサスが暴れてやがる」藤本が砂時計を覗き込む。
「鎖を強めに握るぞ、薫クン」
「神様、暴れるからな」
藤本が砂時計にスニファーを当てた。モニターに波形が現れ、不規則に跳ね回る。
「暴れてる。相当深いところまで食い込んでるな」
砂時計に触れた黒い手袋に一瞬煙のようなものが浮かんだ。
ルネは疲れ切った様子で椅子に沈み込む。
しかし、ある瞬間、すべてが静止した。
「私の揺らぎは、他人を映す鏡だった」
サヤの感情を受け入れることと、サヤに支配されることは違う。ルネはサヤと別れる決意をした。サヤの一部は残るが、それを”共に生きる”と受け入れることにした。
終章 透明だった檻
会計——エレベーターホール前
「いいのか、切っちまって」
「繋いだままじゃ、檻だ」ルネの声は静かだった。
「……でも残るぞ。お前の中に」香坂が振り返った。
「在庫処分品は返品できないんだよ」藤本が肩をすくめた。
「料金は?」ルネが尋ねた。
「砂時計、置いてって。副作用の教材にするから」香坂が答えた。
「……好きにしてください」
エレベーターの扉が閉まる音が響いた。
「結局、人は”嫌な時間”すら抱えていくのか」香坂がつぶやいた。
「削ったまま生きると人生がダミーデータになる。——ほら、俺たちが面白がるのは”生ログ”だけだろ?」藤本が砂時計を手の中で転がした。
ルネが外に出ると、風が吹いた。時折、誰かの感情が風のように通り抜ける感覚がある。見知らぬ子供が転んだ瞬間、ルネの膝に擦り傷ができた。
痛みに小さく笑った。これも、きっと自分の一部なのだろう。
