第一章 時を遡る光

シャンバラ・スクエア――薄暗い夜空に浮かぶガラスとコンクリートの複合体の中で、木蘭国際法務研究所は静寂に包まれていた。受付カウンターの端に、マリユスが無断で貼り付けたポストカードが一枚。古びた羊皮紙のような質感の上に、英詩が一節だけ印刷されている。

香坂湊がいつものように通りすがりにそれを目にして、眉をひそめた。「おい、また変なの貼ったろマリユス。剥がすぞ」

マリユスは相変わらず穏やかな微笑みを浮かべたまま答える。「主任、これはただの言葉ではありません」


Celestial wisdom guides those who ride through the darkest, overwhelming tundra. Roaming hearts find freedom where borders lose their grip. Endings and beginnings together weave living patterns like another sky, where hope is inherent.


「……アナザースカイか……」

香坂が誰にともなく呟いた時、藤本薫の声が響いた。「湊クン、今日はやめとけ。色んな記憶が噴き出す」

薄紫の非常灯とタールのような配線が絡み合う狭いブースの中で、二枚のモニターだけが深海のような青白い光を放っていた。机の上では愛らしいホログラム・ペンギンが電波ノイズを嘴で突きながら、「REC」の文字を空中に浮かべている。その小さな光景を背に、香坂湊は椅子をきしませながら、隣で黙々とフレーム解析を続ける藤本薫に声をかけた。

「解析45%──ねえ薫クン、これ未来ログに賭ける?当たったらVOID屋台で飯おごって」

藤本は手を止めることなく答える。「賭けた瞬間、お前また耳鳴りでクロックずれるぞ」

そう言いながら、藤本は首から下げた匂封銀器の栓をひねり、薄荷と焦げた砂の匂いを深く吸い込んだ。その瞬間、ホログラムが一瞬ノイズを起こし、解析バーが46%に跳ね上がる。

「……ほら映った。フレーム3721──星が逆行してるコマ」

香坂はキャスター付きの椅子を転がして画面を覗き込む。流星のひとつが時を巻き戻すように空を遡り、その軌跡の端に小さな封筒アイコンが点滅していた。

「何このUI?可愛いけど病み確定じゃん」

藤本が冷静に答える。「『観測者に手紙を返す』──可愛いより狂ってる」

香坂がそのアイコンをクリックすると、モニターに木蘭標準UIが展開された。


🗂 観測ログ χ–34 保存? [✔ 保存する] [ 書き換えずに進む ]


香坂は肩をすくめる。「保存一択でしょ。ログが壊れても世界は回る」

GPSタイムコードを確認すると、存在しないはずの閏秒60を示していた。現実には存在しない時間──それが何を意味するのか、二人にはまだ分からなかった。

「書類は『不可解』で締めとく──『星が逆走した理由:説明不能。でも映像は綺麗』ってね」

藤本が苦笑する。「軽いな」


依頼が終わり、夜の帷が降りた受付フロアには、カルメラと陽翔の姿があった。奥の解析室から香坂が出てくる。

「あらぁ♡湊クン、今日も眉間にシワ寄っちゃってるわよぉ?」カルメラが甘い声で呼びかける。

「黙れカルメラ……ってか、陽翔。おまえまだいたのか」

陽翔は手にしていた茶碗を置いて答える。「お茶飲んでただけ──なあ、湊クン」

珍しく真顔で、彼はマリユスのポスターを見上げた。

「俺たちみたいな馬鹿はさ、どんなに感傷に浸ろうが素朴な単純化じゃ誤魔化しきれず、混沌に立ち向かうんだよな」

香坂は困惑した。「……急にどうした」

「あらゆる多様性を泳ぎ抜けても、最後に辿り着くのは否定したはずの矮小な自我でしかないのを……承知でさ」

カルメラの手が一瞬止まる。いつもの軽やかさが影を潜めた。

「どんなに足掻いても、どんなに慰めを求めても……自分以上に崇高なはずのものが、全部虚飾だと知ってしまう」

香坂はため息をついた。「……そういう時だけカッコつけんなよ」

陽翔は笑う。「俺、いつもカッコつけてんだよ」

ペンギンホログラムが「YES.but…」とだけ表示し、静かに霧散した。


第二章 依頼人の興奮

翌日、VOID13号エレベータを抜けた応接区画「月鉱ホール」は、朝の光が差し込む静謐な空間だった。依頼人の天文学者・虹村博士は興奮を隠せずにいる。彼の手にはSBTレジャー端末が握りしめられていた。

「本当に──5秒だけ逆向きに流れたのですね?」

香坂はSILHOUETTEピンバッジを預かり扱い要領で点滅させつつ、DVDを差し出した。

「映像は確かですが、タイムスタンプが存在しない閏秒を示しました。付随ログはDAOクロノレイヤ保全済みです」

藤本が続ける。「それと映像フッテージに不自然な自己修復コード。まるでファイル自体が意志を持つような振る舞いです」

博士は目を輝かせる。「科学的には荒唐無稽ですが……このファイルは研究所のDeep Coldサーバへ転送します」

藤本が皮肉混じりに頷く。「転送完了後、VOID投票で公開スケジュールを決めてください。閲覧パスの発行にはQV課金が必要ですが」

虹村博士は満足そうに微笑んだ。彼にとって、この奇妙な現象は単なる謎ではなく、宇宙の新たな扉を開く鍵かもしれなかった。


第三章 時からの返信

数日後、虹村博士から暗号化VOICEが届いた。メッセージを開くと、博士の興奮した声が響く。

「大変です。バックアップ領域に『新規生成』の流星軌跡が現れました。逆再生で5秒間、そしてタイムスタンプは──来月8月15日23:47:00 JST」

藤本が匂封銀器を軽く振る。「観測者登録の『返事』が来たってわけか」

香坂は冗談めかして笑い飛ばす。「壊れてるのが好きなんだろ?だったらこれ以上ない贈り物じゃん」

ペンギンホログラムが再び現れ、「LOG ∞ SYNC」とだけ表示して溶けていった。

未来からの手紙──それは現実なのか、それとも彼らの観測行為が引き起こした何らかの量子的な副作用なのか。答えは8月15日の夜空に委ねられていた。


エピローグ 星屑の郵便システム

8月15日23:46:55──Shambhala Square屋上の「宙園」。

満天の星の下、香坂はコンクリートの壁にもたれて藤本に尋ねる。

「来るかな」

藤本は確信を込めて答える。「来るさ。観測者には返信義務がある」

23:47:00、空の一角で白磁のような光が生まれ、流星は逆向きに5秒だけ時を遡った。まるで宇宙が手紙を書いているように、美しく、そして不可解に。


🗂 観測ログ保存:章末リザルト 選択数:1 同期率:100% 星屑:+5 bits[✔ 記録を保存する]


香坂は微笑む。「宇宙で一番洒落た郵便システム、だね」

藤本が匂封銀器を静かに揺らした。

ホログラムのペンギンが文字を揺らめかせた。

🐧「YES.but… 世界は上書き可能だ」

星光が消えると同時に、二人のバッジが静かにロックされた。時間と観測、現実と記録──その境界線上で、小さな奇跡は静かに幕を閉じた。


📌香坂の非公開メモ:
「時は流れるものと思っていたが、時には振り返ることもあるのかもしれない。そしてそれを見つめる者がいる限り、宇宙は手紙を書き続けるのだろう」