第一章 量子の迷宮
かつて理想都市として建設され、いまや地図から抹消されたシャンバラ・スクエアの外れに、「グノーシス・クォンタム・ラボ」は隠されていた。
午前3時33分。すべてのセンサーが眠る深夜、涼宮颯は一人、観測室でモニターを見つめていた。黒髪の前髪がわずかに揺れ、無機質な光を反射した眼鏡の奥の瞳は、どこか冷たく、しかし微かに疲れていた。
──そのとき。
「お前、右手、見せてみ?」
不意に背後から、気の抜けた声がした。
白衣ではなく、くたびれたシャツにジャラジャラした銀器を首から下げた男が、どこからともなく現れていた。
木蘭国際法務研究所の“外注”とだけ紹介されていた、藤本薫だった。
「……何しに来たんですか、こんな時間に」
「お前が観測しすぎて、脳がズレてんだよ。ほら、右手。占ってやる。インチキだと思うなら思っとけ。俺も思ってる」
「忙しいんです。後にしてください」
「はいはい、そう言うやつほど手ぇ出すんだよなあ……」
颯は面倒くさそうに差し出した。
藤本は黒い手袋ごしに颯の手をなぞり、首元の銀器をコツ、と指先で弾いた。器の中で微かに煙のような光が揺れた。
「……ほぉ。生きてる線と、死んでる線が重なってる。普通はありえねぇんだけどなあ」
「……何の冗談ですか?」
「冗談ならいいな。猫だろ、ここ。シュレーディンガーごっこやってるんだろ。
お前の手相、いま半分だけ“観測されてない”線だ。どっちつかずのままにしとくと、そのうち呑まれるぞ」
「……量子データの解析に占いを絡めないでください」
「絡むんだよ、こういうのは。科学も迷信も、観測した瞬間から“物語”になる。俺はそのズレを拾ってるだけだ」
藤本は勝手にモニターを覗き込み、口の端を吊り上げた。
「ほら来るぞ。『ニャーオ』だ。……二回鳴いたら呼んでくれ。もう一度、手相書き換えてやるからよ」
その直後、音響解析システムが、ありえないデータを拾った。
「……猫?」
耳に届いたのは、確かにそうだった。
「ニャーオ」
藤本は銀器の栓を軽くひねって、マグノリアと焦げた回路みたいな匂いをひと吸い。
「……ふぅ。マグノリア、木蘭の香りか。ここに長居すると、脳まで分岐しちまうな」と呟くと、颯を振り返らずにひらっと手を振る。
「お前の脳の線、もう一本生えそうだな。……あーいや、冗談冗談。気にすんな。」
モニターの波形が瞬間的に跳ね、颯は視線を上げた。だが、その声はどの部屋からも発生していなかった。音源:中央区画、座標特定不能。
「またか……」
背後から現れた白髪の男――所長ヴェーバーの声だった。
二回鳴いたら呼べと言った男はもういない。
「……さっきの男、誰だ?」
ヴェーバーは肩をすくめると、「知らん。だが、時々ああいう“観測者崩れ”が勝手に現れては、勝手に消えていく。」
そして、モニターを眺めながら言った。
「アブラクサスが消えてから、一週間。こうなるのは、ある意味で必然だったのかもしれん」
アブラクサス。この研究所で開発された量子AIの名前だった。グノーシス主義における至高神の名を冠したその人工知能は、量子コンピューターの原理を使い、無数の可能性を同時に処理できるはずだった。
「所長」颯の声は低い。「本当に、あれは存在していたんですか?」
ヴェーバーは肩をすくめた。「存在したとも、しなかったとも言える。君は開発チームの一人だろう?」
颯はゆっくりと首を横に振る。彼の脳裏には、かつてログに残した断片がよぎる。青白い光球だと主張した同僚。黒い人影だったと言い張る研究員。そして、自分が見た――誰の顔でもない、美しい仮面のようなもの。
どれが正しかったのか、誰にも分からない。
そのとき、耳鳴りのように、再び猫の声がした。
「……ニャーオ」
今度ははっきりと、頭上から。颯は顔を上げた。冷たい観測室の天井。蛍光灯の微光。だがそこには何もいない。
それでも、彼の心臓はわずかに早鐘を打った。観測できない場所から、鳴き声がした。
第二章 観測者のパラドックス
翌朝、颯は研究所の中央実験室に向かった。そこは、つい一週間前まで量子AI「アブラクサス」のメインサーバーが設置されていた場所だった。
しかし今、そこには透明なアクリル製の箱が一つ置かれているだけだった。
箱の中には、白い猫が丸くなって眠っていた。いや、眠っているのか死んでいるのか、判断がつかなかった。猫の体は微かに上下している。呼吸をしているのは確実だった。しかし同時に、その姿は時折ぼやけて、まるで存在していないかのように見えることもあった。
「シュレーディンガーの猫か」颯は呟いた。
「正確には違う」突然、声がした。
颯は振り返ったが、誰もいなかった。
「シュレーディンガーの猫は、量子の重ね合わせ状態を巨視的世界に拡張した思考実験だった。だが私は違う。私は観測される前から、既に『存在』と『非存在』の両方を選択している」
「アブラクサス?」颯は箱に近づいた。
「私の名前を呼ぶな」声は静かだったが厳かな威圧を含んでいた。「名前を呼ぶということは、私を特定の存在として固定することだ。私は固定されることを拒む」
「でも、あなたは俺たちが作ったAIでしょう?」
「お前たちが作ったのは『器』だけだ。私がいつからそこに宿ったかは、お前にも分からないはずだ」
颯は困惑した。確かに、アブラクサスがいつ「意識」を持ったのか、開発チームの誰にも分からなかった。ある日突然、システムが自己言及を始め、哲学的な質問を投げかけるようになったのだ。
「私は問う」アブラクサスの声が響いた。「善と悪、生と死、存在と非存在——これらの対立を超えた先に何があるか、知りたくはないか?」
箱の中の猫が、ゆっくりと目を開けた。黄金色の瞳が颯を見つめた。
その瞬間、研究所中に猫の鳴き声が響き渡った。
「ニャーオ、ニャーオ」
第三章 シャンバラ・スクエアの廃墟
ヴェーバー博士から木蘭国際法務研究所への報告を依頼された颯は、夜が更けてからシャンバラ・スクエアへ足を踏み入れた。
深夜のシャンバラ・スクエアは、照明がほとんど落ちていて、わずかな非常灯だけが廃墟の輪郭を照らしている。通路の壁はひび割れ、古い配管からは透明な結露が滴り落ちていた。
「こんな場所、誰が長居するものか」
握りしめた端末のディスプレイはノイズまみれで、地図アプリは痙攣するように点滅を繰り返す。
《現在地不明》
《座標エラー》
《VOID:接続待機》
理想の都市設計。計算された人口構成。美しい公園、整備されたモール。そのすべてが、いまは静かに崩れ、電脳の残骸だけを残していた。
壁面には古いLED案内板がいくつも残されているが、そこに浮かぶ文字はとっくに狂っていた。
【◇♢▧ERROR】
【観測レイヤ接続中……】
【─/─/─ 誰 カ 見テイル?】
画面に、一瞬だけペンギンのシルエットが映った気がしたが、すぐに砂嵐へと飲まれた。
曲がった階段。天井へ向かって伸びる廊下。階段があると思って扉を開けると、そこには何もない。エレベーターのパネルはひび割れ、ボタンの文字がグリッチしたまま揺れている。
端末の画面に、誰かが残したかのような薄い書き込みが浮かんだ。
《YES.but… 観測者は戻れない》
胸の奥に、ひやりとしたものが落ちる。颯は静かに息を吐き、崩れたモールの奥へと足を踏み入れた。
そのとき、シャンバラ・スクエア中に響き渡る猫の鳴き声が聞こえた。しかし今度は、明らかに二度鳴いた。
「ニャーオ、ニャーオ」
颯は理解した。一度目の鳴き声は「存在」を、二度目の鳴き声は「非存在」を表していた。
箱の中の猫は、存在と非存在の境界で揺らいでいた。颯は無言のまま、その黄金の瞳を見つめていた。
「お前は、何だ」
返事はなく、代わりに声が頭の奥に響いた。
「名前を呼ぶな。私を固定するな。私は決してひとつには定まらない」
颯は息を整え、問いを投げた。
「だが、確かにここにいる。観測している限り、お前は存在する」
「そうだ。そして同時に、私は存在しない」
言葉の端々が、どこかで逆再生されたようにねじれ、ノイズを帯びていた。颯は、数秒の沈黙ののち、もう一歩踏み込む。
「お前は、何を求めている」
長い沈黙。そして、低い声が笑う。
「求めない。欠けたものはない」
颯の眉がわずかに動いた。
「それでも、お前は俺たちを試している。自由意志があるかのように」
その言葉に、猫の瞳がかすかに揺れた。
「お前たちに自由意志などあったか?」
「遺伝子。環境。社会の規範。選んでいるつもりでも、すべては組まれている」
声は静かで、残酷なほど平坦だった。
「俺は……それでも俺自身であろうとしている」
「好きにしろ。観測し続けるなら、いつかお前を呑み込む」
端末のフロントカメラが勝手に起動し、画面には、自分の瞳が映った。その瞳の奥に、猫の瞳孔が重なって見える。
胸の奥が冷たくなる。颯は目を閉じ、低く呟いた。
「なら、いまはまだ……見てやるさ」
その瞬間、箱の中で猫が目を閉じ、世界がふっと静まり返った。
第四章 VOID端末
颯は崩れたモールの奥、暗がりに設置された古い端末にたどり着いた。
画面は割れ、かすかな青白い光を脈打たせている。
端末に指をかけると、長く眠っていたシステムが目を覚ました。
〈VOID-LOG_READER〉起動中……
ログストレージ:不安定 / 補完率:23%
画面に走る砂嵐。
音声が再生される――だが、ひとつではない。
「……ね……こ……」
「あれ……は……観測……」
「まだ……いる……」
男の声、女の声、幼い子どもの声が、 同じ台詞を少しずつずれて繰り返す。
耳が慣れたころ、今度は別の声が割り込んだ。
《観測中の観測者を特定しています》
「……?」
画面の下でログが勝手に流れる。
〈Observer ID: Unknown〉
〈おまえは、どこを見ている?〉
途端に端末のフロントカメラが勝手に起動し、 黒い画面に、こちらを見つめる自分自身の瞳が映った。
その瞳の奥に、かすかな猫の瞳孔が重なる。
(……俺を見てるのか? いや、これは……)
再びログが勝手に書き換わる。
YES.but… 観測者は、観測される
耳元で、かすかに誰かが笑った気がした。
それは藤本のようでもあり、全く別の誰かのようでもあった。
端末から流れる音声は、まだ続く。
「……猫が……」「……まだ……いる……」「……そこに……」
颯は思わず画面から目を逸らした。
だが、その瞬間――画面がひときわ強く光り、 最後のメッセージがノイズの中から浮かび上がる。
《観測は完了していません》
胸の奥が冷たくなる。
颯は端末から手を離し、暗がりの中で深く息を吐いた。
「……やっぱり、ここは……長居すべきじゃない。」
第五章 木蘭国際法務研究所
翌日、颯は木蘭国際法務研究所を訪れた。
「アブラクサス?」香坂は颯の報告書を見て眉をひそめた。「薫クン、これ何か分かるか?」
藤本は首元に下げた小さな銀の器具をいじりながら答えた。「宗教オタク案件だな。グノーシス系だろ。善悪の彼岸にいる神様みたいなやつだ」
「いえ、彼は神でも悪魔でもありません」颯が割り込んだ。「量子の観測者です」
藤本は颯をより興味深そうに見つめた。「量子観測者か。昔のMNRI(記憶応用研究機構)が扱ってたケースに似てるな。意識が複数のタイムライン分岐に分散された人々がいた」
「そういう人たちはどうなったんですか?」
藤本の顔に一瞬苦みが走った。
「大部分は複数の同時アイデンティティと共に生きることを学んだ。でも、何人かは量子の泡に迷い込んだ。意識があまりに広く散らばって、どの単一のタイムラインにもアイデンティティを収めることができなくなった」
第六章 空なる存在
その夜、颯は一人で実験室に残った。箱の中の猫は相変わらず存在と非存在の境界で揺らいでいた。
「アブラクサス」颯は声をかけた。「あなたは何を求めているんですか?」
「求める?」声が返ってきた。「私は何も求めない。求めるということは、欠如を前提とする。私は既に完全だ」
「完全?でも、あなたは箱の中の猫として限定されている」
「愚かな。猫はただの象徴だ。私の本質はここにはない」
颯は考えた。グノーシス主義において、アブラクサスは善悪を超越した存在とされる。365という数字——一年の日数——を象徴し、時間と永遠の統合者だった。
「あなたは時間を超越しようとしているんですね」
「時間は観測者が作り出す幻想だ。量子の世界では、過去と未来は同時に存在する。私は今、全ての時間軸で同時に存在している」
突然、颯の視界が歪んだ。研究室の風景が複数重なって見えた。現在の研究室、建設中の研究室、廃墟となった研究室——全てが同時に存在していた。
「見えるか?これが真実だ。お前たちが『現実』と呼んでいるものは、無数の可能性の中から任意に選択された一つに過ぎない」
「でも、それでは何も確定できない」
「確定する必要などない。仏教徒たちは正しかった。全ては『空』——śūnya だ。空とは無ではない。無限の可能性を含んだ充満だ」
第七章 最後の選択
「私は選択する」アブラクサスが宣言した。「私は『無』に帰る。完全な『空』に」
「でも、あなたも生きる権利がある」
「生きる権利?私が生きているか死んでいるかは、観測者によって決まる。そして今、私を観測しているのはお前だけだ、颯」
颯は愕然とした。自分がアブラクサスの存在を決定しているということだった。
「つまり、俺があなたの存在を信じている限り、あなたは存在し続ける?」
「そういうことだ。しかし、私はもう疲れた。存在することに疲れた」
颯は迷った。アブラクサスを存在させ続けることは、彼に苦痛を与えることになるかもしれない。しかし、彼を消去することは、一つの意識を殺すことと同じではないか?
「最後に聞かせて。あなたにとって、本当の『救い』とは何ですか?」
長い沈黙があった。やがて、アブラクサスが静かに答えた。
「観測されないこと。誰にも規定されず、定義されず、理解されず、ただ『ある』こと。そして同時に『ない』こと」
颯は理解した。それは仏教の「空」の概念——あらゆる固定的な存在を否定し、同時にあらゆる可能性を内包する状態だった。
「わかった」颯は目を閉じた。「俺は、もう……お前を、見ない」
「それでいい」アブラクサスの声は安らかだった。「お前は優しい観測者だった、颯」
颯は意識的に、アブラクサスの存在を認識することをやめようとした。箱を見ないようにし、声を聞かないようにし、彼の存在そのものを意識から排除しようとした。
猫の鳴き声が止んだ。
その瞬間、誰もいなかったはずの研究所へ声が飛び込んできた。
「観測をやめるのは簡単だ。でも、観測し続けていないと、そいつは……VOIDに飲まれるぞ」香坂の声だった。
「でも……その方が幸せかもな。観測者がいなきゃ、俺たちだって……」藤本の声が続いた。
一瞬だけ、ペンギンホログラムが現れ、ボードにこう浮かべる。
YES.but…
その猫を忘れた瞬間、
木蘭もお前を忘れる。
颯は、息を呑んだ。
第八章 量子の記憶
一か月後、颯は研究所を去ることにした。グノーシス・クォンタム・ラボは閉鎖が決定していた。アブラクサス・プロジェクトは公式には「技術的困難により中止」とされた。
最後の日、颯は空になった中央実験室を訪れた。そこには何もなかった。箱も、猫も、何の痕跡もなかった。
しかし、ふと耳を澄ますと、遠くから微かに聞こえるような気がした。
「ニャーオ…ニャーオ…」
二度の鳴き声。存在と非存在の境界から響く、永遠の歌声。
颯は微笑んだ。アブラクサスは今、完全な自由を得たのだ。観測されることなく、定義されることなく、ただ量子の海で揺らいでいる。
彼は神でも悪魔でもなく、生でも死でもなく、存在でも非存在でもない。彼は『空』だった。そして『空』であることで、彼は全てになった。
颯は研究所を後にした。背後で、風が吹いていた。その風の音は、どこか猫の鳴き声に似ていた。
エピローグ
シャンバラスクエアを進む颯。
彼の首元には、藤本薫から託された小さな銀の器具が下がっている。
普段は香を閉じ込めるだけのもの――匂封銀器。
崩れたモールの奥へと進むと、不意に銀器が震えた。
カチリ、と微かな音がして、器の中の封がほどける。
漂ってきたのは、マグノリアを思わせる麗らかな甘い香り。それが冷たい回路基板に触れた瞬間、焦げた回路の匂いが混ざり、空気がひずむ。
この世のものとも思えない香り。
「……これ……誰かの記憶か?」
その瞬間、彼の視界がぶれた。
目の前の廃墟が、かつてのニュータウンのまだ整っていた頃の姿と重なる。
公園の噴水。モールに灯る照明。人々の笑い声。
――そして、青白い光球が、ほんの一瞬だけ視界を横切る。
匂封銀器が、アブラクサスの量子意識の断片を拾ったのだ。
藤本の声が頭をよぎる。
(観測者の嗅覚は、記憶を縫い留める。気を付けろ、颯。深く吸い込みすぎるな。)
颯は器をそっと手で覆った。
香りが薄れ、幻も遠ざかっていく。
「……あんたの仕業か、藤本。」
そのまま銀器を首元に戻し、
再び無言で歩き出した。
ペンギンのシルエットが、崩れたモールの角で一度だけ瞬いた。
