副題:「記録されなかった風のなかで」
プロローグ
木蘭国際法務研究所の中庭に、午後の光が穏やかに降り注いでいた。軒先に吊るされた風鈴は、鳴るでもなく、揺れるでもなく、ただ微かに”いる”だけだった。
香坂湊はフェンスに肘をかけ、じっとその揺れを見ている。隣では小さなペンギンがホログラムを開き、風速計を表示して消した。
「主任。──そろそろクライアント、来るぞ」
藤本薫の声が背後から聞こえた。
香坂は振り返らずに答えた。「今日は、なんだか風が”引き返してる”気がする」
藤本は少し黙ってから言った。「……都合の悪い風か?」
「わからない。まだ、香りがついてない」
香坂はそのまま歩き出し、ペンギンがついてくる。
第一章 欠番ロッカーの謎
その日のクライアントは、60代の女性教師だった。涙目でこう訴えた。
「欠番ロッカーに閉じ込められていたネガを、卒業生たちへ届けたい」
その年度、誰一人として”記録”に残っていない。でも、写真には影が写っている。記憶のどこかにだけ、存在していたらしい”クラス”。
クライアントが泣きながら去る。香坂と藤本が黙って見送った。
しばらくの沈黙の後、藤本が口を開いた。
「湊クン、……”あの禍”か」
香坂は返事をせず、視線を落とした。
「……あのとき、書類は全滅。DAOログも、記録媒体も。残ったのは”欠番”だけ」
藤本が苦く笑った。「でもネガはアナログ。嘘がつけない。──一番都合が悪いやつだ」
二人は重い空気を背負いながら、欠番ロッカーへと向かった。
欠番ロッカーを開錠すると、予想外のことが起こった。
「……鍵は回ったのに扉が動かない。押す?」香坂が困惑した。
「引け」藤本が答える。
ギギ、と扉が外れると同時に零れ落ちた古いネガを、香坂が手に取った。
「在籍ゼロの年度のネガ、っと。――影が二重、やっぱり君の読み当たり」
「影の方が濃い。写真の主役はそっちかもな」
「主役が写らない写真、教師泣かせだね。書類じゃ”欠番”で締めるしかない」
「書類は現実の外壁。思い出は中身」
香坂は少し考えてから言った。「……壁だけ残れば充分って人もいる。――現像、回す?」
藤本がうなずく。「静かに」
第二章 ネガ洗浄台
ネガ洗浄台で、二人は丁寧に作業を進めた。
「……写真、薬液に浸かるたび色が戻る。あの先生も浮かぶだろうな」香坂が呟いた。
「在籍が欠番でも、教え子は欠番になれない。――ずっと胸ポケットにいたんだろ」
「寄せ書きの汚れ、見てみ。インクが ‘ありがとう’ で止まってる」
「”続きは卒業式で” と約束したんだろう。DAOサーバは覚えてないが、先生の記憶は書換え不能」
香坂はネガを光に透かした。「影が二重の子がいる。……写り損ねた卒業生だ」
「写れなくても参加はした。SBTみたいに刻印だけ残った」
「じゃあ”譲れない影”も現像しよう。──先生が見たクラスが全部そろうまで」
香坂は現像液の温度を上げ、藤本は静かに露光タイマーをセットした。
「温度2度上げ。インクの掠れを救うやり方、前もやったな」
「泣いた人の手紙は何度でも助けるさ。俺ら、壊すだけじゃない」
ネガをライトテーブルに並べる。影の二重が淡く1人ぶんに収束し始めた。
第三章 現像完了直前
22時04分。現像完了直前。
「量子鍵がコマを引っ張った。影が5ミリ先に寄る――時間が揺れた分だけ埋まるんだね」香坂が観察した。
「揺れは、”神様の息”だよ。壊すように吹き込んで、それでも整えて返す。
香坂の頬に皮肉めいた笑みが浮かぶ。
「なんだそれ……アブラクサスか」
作業をしている手から顔を逸らすことなく横目で藤本を窺う。
「23時にVOIDで燃える予定だった薬液、今日は持ち帰りだ」
「今日のVOIDは静かにしておく。先生の夢まで焦がしたら、君が泣く」
「俺より、先生が笑う方が書類は早く片づく。――さ、写真焼こう」
プリンタが回りはじめ、室内に淡い現像の匂いが漂った。香坂はプリントを乾燥棚へ並べ、藤本は影が整ったことを確かめて頷く。
第四章 予期せぬ結末
写真を焼き増しし郵送すると、受取人不明で全数返送された。ただ1通だけ封筒が開いており、中身の写真が水滴で半分溶けていた。まるで、そこだけに水が集中したように。
しかも溶けた部分は、二重露光の人物の顔だけ──。
「それでも残った半分は、笑ってた。……沈まない卒業写真、だよね?」
香坂の声には、僅かに噛み殺した苦みが宿る。
第五章 来訪者
エレベーターが開き、玄慧と阿璃が降り立った。
「久しぶりだね、ここ。……阿璃、風、強すぎない?」玄慧が気遣うように言った。
「ううん、平気。今日は、心臓が静かだから。──ガラスの記憶、眠ってる」
阿璃は胸にそっと手を当てた。風に光がきらりと反射し、胸元の奥にガラスの光が一瞬透ける。
遠くから気配に気づいた香坂が、足音を止めた。
「……来たのか。」
少女に微笑を浮かべてみせ、僅かに間を置いた。
「構文耐性、もう試しても?」
「無理はさせない。少し、馴染ませるだけ。……VOIDに行く前に、木蘭の”風”を体に入れておく必要がある」
「……風で済めばいいがな。風が抜けたあとは、重くなる。」
ペンギンがホログラムで “ようこそ” の文字を出すと、阿璃が微笑んだ。
「ありがとう。……この場所、覚えてるかも」
玄慧は静かに阿璃を見つめた。「君の心臓は、あの夜の”光”で繋いだ。……なら、木蘭の風も、君の記憶になる」
阿璃がぽつりと呟いた。「ねえ……どうして、全員”欠番”なの?」
その声に空気が揺れた。香坂が小さく息をのみ、藤本が指先を止める。
静かになった部屋に風鈴の音が微かに響く。
木蘭国際法務研究所の中庭で揺れている、あの風鈴。
風の音だけが、すべてを覚えていた。
