~ 案件ログ:Shambhala Square 表層・旧市立図書館 閉架書庫 ~
第一章 受任
依頼書(抜粋)
「貸出履歴に存在しない本が一冊──
ISBNなし。バーコードなし。
除籍申請を完了させないと館システムが閉館処理へ進めません」
依頼人署名:氷室 理緒
プロローグ ~香坂の視点~
シャンバラ・スクエアの裏通り。夜更けの古書店で、香坂は埃をかぶった法学書をめくっていた。紙の縁が湿って重く、灯りの下でインクがまだ呼吸しているように見える。
そのときだった。
ポケットの奥で、ホログラムが瞬いた。ペンギンが立ち上がり、胸のボードに赤い文字を滲ませる。
《市民トラッキング:SBT識別不能》
香坂は本を閉じる。指先に残った紙の温度が一気に冷えたように感じた。
「……VOIDに外の人間が? こんな時間に?」
ペンギンがボードをこちらに向けて首をかしげる。その仕草は、急げと言っているように見えた。
香坂は法学書を棚に戻し、外套を羽織る。外の風はぬるく、遠くでサイレンが鳴っていた。
第二章 木蘭へ急行
木蘭の扉を押し開けると、薄暗い部屋に煙の匂い。ペンギンがすでに机の上でホログラムを揺らしている。その正面で、藤本が黒手袋のまま客の手を取っていた。
香坂がジャケットの襟を直しながら入ってきた。
「おい藤本、警告鳴ってるぞ。また何か妙な客を──」
香坂の視線が理緒に止まる。黒髪に眼鏡、制服のようなジャケット。まるで迷い込んだ委員長のような佇まいだった。
「……外の人間じゃないか。誰が招いた?」
藤本が肩をすくめた。
「占い中。俺、当てたくなっただけ」
香坂がため息をつく。
「お前はまた……。で、何を読んでる?」
「温度を。まだ読む奴がいる。死んだ本にしては熱すぎる」
藤本が微かに笑いながら答えた。
その瞬間、部屋の空気がじわりと湿った。理緒は言葉を探すように唇を噛んだ。
「お前、ECUの司書なんだろ。そりゃ識別できるはずない。ここは市民カードじゃ入れない」
藤本が黒手袋の指先を理緒の掌に滑らせ、白煙が立つ。理緒はすっと手を引き、胸元の身分証を確かめて語調を硬くした。
「占い行為は作業指示に含まれていません。ログの明示をお願いします」
「温度測ってるだけさ。”触診”──」
その言葉を遮るように、香坂が一歩前へ出た。背筋を伸ばし、ハーブの匂いを帯びた息を吐く。
「ストップ。藤本、そのデータ採取は【非定型アクセス】扱いにする。俺が主任として手続き責任を負う。記録タグは”TEMP-SENSE / 接触型”で付け、タイムスタンプを全行に打て」
藤本は肩を竦めて手を離した。
「はいはい。主任、監査大好きだな」
香坂は理緒へ向き直り、名刺サイズのホログラムを投影する。そこには木蘭の内部プロトコル番号と、緊急ワークフローの簡易図が表示されていた。
「氷室さん、これが当研究所の臨時監査用フローです。以後、全操作をリアルタイムであなたにミラーリングします。異議があれば、どの時点でも即停止を要請してください」
理緒は軽く息を吐き、メモパッドに”監査フロー確認”と書き込む。
「……承知しました。正式なログが残るなら、続行に同意します」
香坂は頷き、藤本へ視線だけで合図を送る。藤本は黒手袋を軽く叩き、白煙を収めた。
「では作業を再開。手順は”フォレンジックA-3″。藤本、温度取得は一点あたり0.1秒。ログ欠落を出すなよ」
「了解、主任」
再び理緒の掌を取る藤本。今度はホログラムにタイムスタンプがきっちり流れ、理緒もメモパッドで同期ログを確認しながら、わずかに肩の力を抜いた。
木蘭の闇で、手続きは再び正面を向いた。
読心
香坂は煙草代わりの匂封銀器を口元にあて、じっと耳を傾けた。藤本は机の角に片肘をつき、黒手袋のまま理緒の手をとった。
黒手袋の内側で、わずかに白煙が立つ。彼の瞳が理緒を覗き込む。理緒は返す言葉を探しあぐね、視線を落とした。
藤本が銀器を拭きながら呟いた。
「主任、この件、シュレーディンガーの猫だな」
「……観測するまでは、生きても死んでもいる?」
理緒が不安げに尋ねる。
「やはり、あなたは……特別な力を?」
香坂が書類をめくりながら首を振った。
「ないない。特殊能力なんてないよ。ただの道具と、ややこしい理屈で遊んでるだけ」
藤本は軽く笑い、黒い手袋を外した。
「それでも、触れた途端に揺れるものはあるんだ」
その瞬間、理緒の瞳が揺れた。
「お……お願いします……!」
これまで理性的だった理緒の口調が変化していた。
「……わ、わたしは……」
理緒が何かを言おうとして、言葉が途中で途切れた。唇が動くのに、音が出ない。眼鏡の奥の瞳が震えている。
「図書委員長だった頃から、ずっと完璧でいなければと思っていました。規則を守り、整理整頓を怠らず、誰よりも責任感を持って……でも、一枚だけ、どうしても処理できない貸出票があって」
理緒の声が次第に小さくなる。
「祖父の遺した本です。本はもうどこにもないのに、貸出票だけ私が……処分できずにいて。除籍すべきだと頭では分かっているのに、手が動かなくて……」
メモパッドを握る手が震えている。
「……もしこの貸出票を外せないままだと、私は──自分が何のために図書館にいるのか、分からなくなってしまいます。言葉が出なくなるかもしれない……です」
ホログラムの光だけが彼女の頬を照らす。理緒は眼鏡を外し、手の甲で目元を拭った。
香坂はポケットメモに走り書きした。
“長期ストレスにより、自己無価値感と共に失語症リスクあり”
「このままだと彼女、存在しない本に飲まれるな」
香坂の胸をかすめる思いだった。理緒の几帳面さが、逆に彼女を追い詰めているのが見えた。
理緒が顔を上げる。
「……私、間違ってますか? 規則より感情を優先してしまうなんて、司書失格でしょうか?」
香坂は静かに首を振った。
「間違いなんて、誰も決めちゃくれないさ。でも、確かめに行くことはできる。俺と一緒に、外へ出るか?」
理緒は小さく頷いた。眼鏡をかけ直すとき、わずかに震えが残っていた。
第三章 連合中央図書館・閉架区画
午前零時過ぎ。ECU連合中央図書館、深夜の閉架。蛍光灯が一瞬ちらつき、静電気が頬を刺す。
職員通路の鍵を開けると、湿った空気が押し返すように流れ込んできた。
いつも知っているはずの書庫なのに、どこか「息を潜めた」空気をしている。
理緒は思わず周囲を見回した。棚の影は静止しているのに、見られているような気配だけが首筋に残った。
職員通路の鍵を開け、香坂が静かに言った。
「歩くとき、あまり棚を見ない方がいい」
「……どうしてですか?」
「視線を合わせると、返してほしがるからさ」
理緒はそれ以上訊かなかった。彼女自身、幼いころから棚の匂いと息遣いを感じていたから。
二人の靴音がしずくのように落ちる。棚番号【L‑999‑Δ】の前で、理緒は立ち尽くした。
「……この番号、見たことがありません」
「あるよ。見てないことにしただけだ」
書庫の謎
夜間、館内全灯落ち。防犯センサーは藤本が”深呼吸”して眠らせていた。
書架の隅に番号の消えた貸出票が落ちている。香坂が貸出票を拾い上げるより早く、藤本の黒手袋が棚板をなぞった。
ピリ、と指先に走る刺激。棚板に残った微細な電荷を感じ取っている。
「……この空間、まだ誰かの痕跡が残ってる。完全に空じゃない」
「貸出履歴、DAO側にも空行。存在しない本は”本”じゃない。でもここに貸出票だけ残った……未練だな」
理緒が貸出票に触れたとき、一瞬だけ遠い記憶の匂いを感じる。古い紙と、祖父の手の温もり。
「図書委員長になったのは、祖父に褒められたかったからでした」
理緒が小さく呟く。
「でも祖父が亡くなった後、その本だけはどうしても見つからなくて。私が何か間違いを犯したのかもしれません。だから完璧でいなければ、祖父に申し訳が立たないと……」
声が震えている。長年積み重ねてきた責任感の重みが、ついに言葉になった。
貸出票をポケットに戻そうとした瞬間、棚板の奥から微かな軋みが走った。
まるで削除し損ねたデータが小さく処理音を立てているような、断片的な電子ノイズ。
理緒は反射的に立ち止まる。思い出したくても思い出せない記憶が、データの間隙から漏れているようだった。
香坂がホログラムを開く。
《返却済ステータスに設定》
「……これで終わらせる。いいね?」
理緒は委員長口調のまま震えつつ答えた。
「……除籍が規則なら、それで充分です。私は”存在しない本”を棚から外したかっただけですから」
理緒が握っていた白手袋に、ふいに灰が落ちる。その灰の表面に──
「無」という字がにじむように現れた。
けれど、その筆跡だけは、癖のある丸みを帯びていた。高校時代の理緒が書いていた、見覚えのあるあの形。
理緒はそれを見つめ、息を呑む。
「……私……こんな字……」
言葉にならないまま、彼女の指が震える。その声が、棚の奥の湿気と同じ重さで沈んだ。
第四章 除籍手続き
「……薫クン。記録の境界を曖昧にして’返却済’にする」
藤本がかすかに笑った。
「アブラクサスが矛盾を飲み込む。存在と非存在の揺らぎで、委員長に呼吸を返す」
DAOの貸出台帳から”空行”が切り取られ、SBTの焼け焦げた匂いを残した。
「完了。群体サーバは”本無し・履歴無し”で整合。でも──影が温いままだ」
「群体サーバが忘れたがっても、本は戻りたがる」
その瞬間、何もない棚板の上に「N/A」という字が浮かんだ。薄青い光。行政文書でよく見る、癖のない公用フォント。まるで棚そのものが政府DAOの端末になったかのようだった。
一冊分のはずの空間に、いくつもの行が隠れている。
藤本が低く笑う。
「……一冊じゃ、ないな。消したつもりの行がまだいる」
理緒は棚から目を離せなかった。「N/A」と「無」。公用フォントと高校時代の自分の筆跡。どちらも、確かにそこに在った。
棚板に”黒電話の影”だけが落ち、受話器が揺れる幻影が現れた。
その瞬間、理緒の指先を冷たい空気が撫でた。
誰かが先に貸出票を掴んだような感覚が走る。
実体はない。だが、記憶の残滓が棚を通して彼女の動きを引き留めた。
理緒が息を呑む。
「……電話なんて設置していません。閉館後は私しか入れないのに」
香坂は一瞬、言葉を失った。《対処案:返却済 → 完了》の横に、彼は新たなメモを走らせる。
《影データ有り/感情残滓検出 → 手動除籍 or VOID転送》
黒電話の影が揺れ、ベル音が鳴り響く。
「貸出票にSBTのにおいが残ってる。譲れない思い出ってやつ」
「譲れないなら燃え残る。──主任、どう閉じる?」
「君が覚えてる家の電話番号は?」
「最後の4桁が9999……。幼い頃の実家。もう更地です」
「貸出票のポケットは”受話器置き”みたいなもんだ。影がベルを欲しがってる」
「じゃあ受話器は”忘れたい家”だ。本体を除籍すれば、受話器も処分できる。やるか?」
理緒は答えられなかった。手袋の上に落ちる涙。メモパッドを握った手が震えて、貸出票にしがみつく。
「……消したく、なかったのに……っ」
理緒は唇を噛みしめ、肩が小さく震えた。
「この貸出票だけが、祖父との最後の繋がりだったんです。内容も覚えていないのに……でも、これがなくなったら、本当に祖父を忘れてしまいそうで」
涙がぽろぽろと落ちる。
「……わ、私……本当は……祖父に認められたい気持ちを手放したくなかった。完璧な孫娘でいることが、唯一の証明だと思っていたから」
言葉が途切れ、音にならない。長い間胸の奥に押し込めていた思いが、ついに溢れ出した。メモパッドを握る手から、また一粒の涙がこぼれた。
「でも……もう疲れてしまいました。こんなに苦しいなら、祖父はきっと望んでいないですよね」
理緒の声に、ようやく諦めにも似た安堵が混じっていた。
「落ち着け、委員長」
香坂は低く言った。
VOID転送
香坂がホログラムを閉じると、わずかに肩を落とした。
「──薫クン、存在と非存在の境界で揺らがせる。もう一度受話器を置こう」
藤本がゆっくりと手袋を外し、影に指先を触れさせる。
「了解、湊クン。影は虚無へ。VOIDでなら息できる」
香坂が再びホログラムを開くと設定を書き換える。
《VOID転送》
影が静止し、ベルが鳴りやむ。貸出票は薄い封筒へ。書庫の灯りが徐々に落ちる。
9999の光が闇に溶ける直前、一度だけ点滅した。
受話器の影が、誰もいない棚の上でそっともう一度揺れる。
それは呼吸のようでも、名残惜しさのようでもあった。
「忘却ダイヤルは切れたが、通話ログは残った。9999は’ありがとう’の代わり」
「委員長仕様の堅牢メモリ。そう簡単に消せないさ」
「薫クン、今日は降りる前に’ありがとう’を宵に置こう」
「了解、湊クン。VOIDは深いが、声は届けとく」
香坂が理緒に向き直る。
「規則を守る人は嘘をつかない。嘘をつけない人は、自分を削る。だから今日だけ嘘をあげる──”その本は返却済”。良いね?」
理緒が小さく礼をして答えた。涙を拭った跡が眼鏡に残っている。
「お二人とも……助かりました。あの本は、わたしの”祖父が書いた”はずの本でした。書名も内容も思い出せないまま、ずっと貸出票だけが残っていて──」
「思い出せない記憶は”開架”に置けない。でも完全に捨てる必要もない。今日からは影が司書だ、委員長」
「影司書はVOID専門。ベルを鳴らしな。9999でね」
理緒は深く息を吸い込んだ。
「祖父は、私が完璧でいることよりも、私が幸せでいることを望んでいたのかもしれませんね。やっと……やっとそれが分かりました」
彼女の声に、これまでにない穏やかさがあった。涙の跡を眼鏡の内側だけ拭き、深々と一礼した。
その背で古い自動ドアが閉まる音──誰もいない書庫に、受話器を置く「カシャン」という完璧な音が、最後に響いた。
エピローグ
閉館アラームが鳴り、二人は書庫を後にする。
消灯直前、館内マイクからノイズが走り、ホログラムの木蘭ペンギンが現れた。
手に持つボードが一瞬だけ光り、文字が滲むように浮かぶ。
🐧《投函処理:完了》
一拍おいて、文字が揺らぐ。
🐧《Yes, but… 通話記録 9999 保留》
すぐに光が消える。
香坂は肩を竦める。
「薫、今夜は壊さずに戻ってきてくれよ」
「注文多いな、湊クン。君こそ書類で塞ぎ切れる?」
「塞ぐさ。アブラクサスに餌をやるのは君の役目、皿を片付けるのは俺の仕事だ」
📌香坂の非公開メモ: 「譲れない思い出は燃え残る。燃え残りは、闇より明るい灰になる──」
