第一章 鼻歌の残響

深夜の宵木蘭オフィス。蛍光灯が一本だけ点いた薄暗い室内で、香坂湊は手帳に走り書きをしていた。

「28歳・新婦/自己肯定感→他者評価依存ぎみ」

ペンを置き、彼は溜息をついた。今回のクライアントは特殊だった。結婚式当日に流すオルゴール曲を、亡き祖母の鼻歌で流したいという依頼。一見すると心温まる話だが、香坂の調査で奇妙な事実が判明していた。

「式場BGM権利処理を進めているんだが」香坂は藤本薫に向かって呟いた。「曲の元ネタが音楽史のどこにも見当たらない」

藤本は銀器を磨きながら答えた。「祖母世代の誰に聞いても、その曲を『聴いた覚えがない』と口を揃えている」

そのとき、式場控室の天蓋スピーカーが突然自動再生を始めた。無人の録音室に響く声――

「わたしの耳には届いてるよ。おやすみ」

香坂が藤本に視線を送ると、藤本が微かに頷いた。聞こえたという合図だ。このままでは、音が崩れたとき新婦が「祖母の愛情が消える」と錯覚し、式が崩壊する危険性がある。


第二章 和声のゆらぎ

翌日、香坂と藤本は〈天蓋オルゴール〉の試聴チェックを行っていた。照明を落とした室内で、オルゴールだけが微かに回っている。

「音質は問題ないな」香坂が呟いたとき、突然オルゴールの音に奇妙な和声のゆらぎが混じった。

「楽譜に無い旋律だ」香坂が眉をひそめる。

その瞬間、木蘭の奥からバイオリンが鳴り出した。弦が削れるような乾いた音が、控室の天井から微かに降ってくる。だがスピーカーからの音ではない。

「……どこからだ、これ」香坂が呟いた。

背後の壁から、サリエリが姿を現した。Tシャツには LED電光掲示で「感情は非合法」の文字が踊っている。

「そのコード進行、俺が昔、世界初で書いたやつだわ」サリエリは得意げに言った。

香坂は即座に距離を取った。

「あー、守秘義務あるから勝手に入って来ないで?」

サリエリは楽譜も無いのに指揮棒のように指を回す。その手元から落ちる光が、オルゴールの影をもうひとつの影に変えていく

「鼻歌は記憶を越える。譜面? お前たちは”紙”を信じすぎだ」

「そういうポエム、夜中に聞きたくないんだ」香坂は疲れたように言った。

藤本が小さく笑う。「VOIDの音楽オタクだ、耳は正確」

「オタクじゃない、天才だ。いや、天才だった……いや、天才だ」サリエリが呟くように繰り返す。

「自分で訂正しないでくれる? 気味悪いぞ」

香坂が苦笑いを浮かべる横で、サリエリは式場備え付けの古いデッキを弄っていた。耳元でサイバーピアスが発光している。

「これを逆位相で再生してみろ。ほら、同じ旋律が浮かんでくるだろ」

「なるほど……これ、オルゴールと同じだな」香坂は驚いた。

サリエリは、バイオリンを脇に抱えると壁にすっと消えていく。

周波数解析の結果、その声域は胎児心音域と重なっていた。

「どこを掘ればいいのかはわかったな」香坂は手帳を閉じた。


第三章 量子の子守唄

最終チェックの日。香坂と藤本は慎重に作業を進めていた。

「旋律、胎教域そのまま。録音エンジンが DAO サーバに勝手バックアップしてる」香坂が報告する。

「群体サーバが子守唄を覚えた。誰の胎内かは気にしないらしい」藤本が応答した。

「式場の照明ログ確認。推し色でもないのに、SBT 刻印のライトが一基だけ点いた形跡」

「譲れない色は当人が持ってくる。亡くなった祖母でも」

香坂はデータを見つめながら続けた。「量子鍵、0.03ピコ秒だけ巻き戻り。オルゴールが時間を舐めたか」

「時を舐めた音は甘い。VOIDが甘さを吸えば、深夜は静か」藤本の言葉に、香坂は苦笑した。

「波形きれい。DAOサーバもノイズ拾ってない。あの子、これで安心だ」

「安心より”存在証明”か。鼻歌を SBT で刻んで式場に固定」

香坂はオルゴールの蓋に手を置いた。「譲れない音色は刻印しとけばいい。量子鍵は?」

「0.01 ps 引いておいた。時が噛まない程度」

香坂が首肯した。「丁寧。……薫クン、今日だけは本当に壊すなよ。新婦、笑顔で立たせたい。」

右端の唇を僅かに持ち上げ、藤本が皮肉混じりに返す。「曲を壊せば花嫁が泣く。君は涙の書類、書きたいか?」

「書く暇はない。アブラクサスに花びらまで食われる」

香坂がオルゴール蓋を閉じ、音が止んだ。

オルゴールに手を添えていた藤本の手に香坂の手が重なる。

「……だから今日は壊すな。頼む、薫」

「その呼び方、陳腐に刺さる。了解、湊クン。曲は生かす。君も」

ゼンマイの残響が止まる。二人は照明の落ちた控室を出た。式場モニターには、誰も触れていないはずの SBT ライトが一瞬だけ灯り、すぐ闇に沈んだ。


第四章 結婚式の奇跡と災難

式当日。オルゴールは完璧に鳴り響いた。

式場モニターの SBT ライトが灯ったその瞬間、ホールの残響が鎮まり、銀のラメスーツに全身を包んだサリエリが漆黒の量子チェンバロを抱えて前に出てきた。譜面台に浮かぶのは、モーツァルト《交響曲第41番「ジュピター」第4楽章》。

サリエリは鍵盤に指を置き、厳かな微笑みを浮かべて言った。「歌え。おまえが歌う限り、死者は黙らない」

オルゴールとの和声が鳴り響き、譜面データが淡く天井へ昇華していく。SBTライトと幻想的に調和し、光粒が式場に舞った。

感動した新婦の目に涙が浮かび、招待客がもらい泣きを始める。

だが自動補完されたモーツァルト対位法がサリエリのテンポを置き去りにし、アンプが過負荷で パァン! と火花を散らした。裾を踏んだ彼は旋律の余韻ごと華麗に回転し、コード束へ豪快ダイブ。

……香坂が視線を外す。

……藤本は匂封銀器を弄んでいる。

木蘭ペンギンのホログラムが、BASE 通販広告をノイズ混じりで挿入した。

「\ 木蘭セレクトショップ / 

・量子チェンバロ型Bluetoothスピーカー
・”木 蘭” 刻印ト音記号ピンバッジ
・天蓋オルゴール(胎教モデル)

・【NEW】感情は非合法Tシャツ(LED発光機能付き)

 → 夜間モードで勝手に点滅、譜面と連動オプション有

 今すぐ BASE で! [Y] / [N]」

サリエリは転げたまま譜面をそっと閉じ、低く囁いた。

「今夜の主旋律は、君だ――花嫁」

誰も助けてくれない中、チェンバロの弦だけはきれいに響いていた。

香坂が低く吐き捨てる。「……空気読めよ」

藤本が小さく呟いた。「で、あいつ生きてる?」

「さあな。請求書だけは送っとけ。」

音楽がフィナーレを迎えた瞬間、客席側に手を差し出して決め顔で頭を下げたサリエリは、ライトスタンドに頭をぶつけて再びひっくり返る。

音楽は止まらず、藤本が「あーあ……」と呟く。

「薫クン……あと返品処理しとけ。」


エピローグ

式は無事に終わった。新婦は帰り際、誰にともなく笑った。それ以上のことは誰も知らない。

天蓋オルゴールは、誰の記憶にもない鼻歌を、確かに現実のものとして残し続けている。

胎児心音域で響く子守唄は、DAOサーバの奥深くで静かに眠り、時折、誰かの夢に紛れ込んでいく。

香坂と藤本は、また次の不思議な依頼を待ちながら、深夜の宵木蘭で新たな謎と向き合っていた。

サリエリの請求書は、今も未払いのままである。