副題:“沈んだ太陽が、一拍だけ戻ってきた”
第一章 迷いの足跡
夜のVOIDレコーディングスタジオ。ロビーの薄明かりの中で、桜井ひまりは収録ブース前に立ち尽くしていた。手の中には、なぜか文字が反転したサインデータ。自分の名前が鏡に映したように逆向きになっている。
「……ここで、いいのかな……」
彼女の迷いが声に出た瞬間、ブースの扉が開いた。昼間のだらしなさをそのまま夜に持ち越したような藤本薫が、首から下げた銀色の匂封銀器(リキッド・セント・シールド)を指で回しながら現れた。
「名前、聞かなくていい。手、出して」
「え?」
「占いだよ。初めて来る人には、絶対やることにしてんの」
藤本は黒い手袋をしたまま、ひまりの手をひょいと掴んだ。手袋の内側で、ほんのわずかに白い煙がくすぶるのが見えた。
「……はい、出ました。”逆流線”。記録を逆さに抱えたまま歌ってる。あと、恋愛線は湿度98パーセント、風邪ひくぞ」
「え、えっ……何の話ですか……?」
ひまりは顔を赤くしたが、藤本は真顔で続けた。
「たぶん、君のサイン、鏡文字だろ。最後に小さい太陽描いてるやつ」
「……! なんで……」
「俺、こういうインチキしかやってないからさ。ほら、入れよ。主任が待ってる」
ひまりが呆然としたままブースに入ると、香坂湊が波形モニターを睨みつけていた。
第二章 逆さまの音楽
収録ブース内。午後10時12分。
香坂がオーディオファイルを開くと、すべての波形が逆向きに表示された。再生ヘッドを進めても、音は頑なに後ろ向きのままだった。
「逆再生のまま配信したら大炎上だ」香坂は眉間にしわを寄せた。
「薫クン、波形を正転させろ。残響処理は俺が潰す」
「了解、主任。DAOキャッシュに潜る」
ペンギンと呼ばれるAIアシスタントがホログラムを揺らし、端末にエラーノイズを表示した。
『YES.but… SBT刻印が鏡文字です。サイン読取不能』
香坂は拡大ログを覗き込んだ。そこには確かに”桜井ひまり”の文字があった。丸いひらがなで、最後に小さな太陽マーク。すべてが反転している。
「名前は確かに刻まれてるのに、世界から見えなくなってる……」
第三章 時を押し戻す
キーボードを叩く音が夜のスタジオに響く。
藤本が波形データを反転処理し、香坂が残響ノイズを除去する。SBTタグをひとつずつ正常化し、文字を本来の向きに再配置していく。
「ミラーは量子鍵でひっくり返す。0.02ピコ秒分、時を押すぞ」
「押せ」香坂が即座に応じた。「はい、波形戻った。センターチャンネル微ブレあり。薫クン、ノイズ棄却を」
「アブラクサス式で潰す。壊して整える」
波形が滑らかに再整列していく。サインも、音も、ゆっくりと”正方向”を取り戻していった。
『YES.but… 感情構文:最大輝度。ボーカル波形:幸福78%、寂寥22%、ノイズ閾値ゼロ』
第四章 太陽の残光
モニターからテスト再生の音が流れた。
高音域で、ひまりの声が一瞬だけ伸びた。誰の耳にも届くように作られた、まっすぐで温かい音だった。
「……逆再生でも、声の熱は消えてなかった」藤本がつぶやいた。「太陽は沈んでも、残光は生きるってやつだな」
「俺ら、間に合った?」
ペンギンが『YES.but…』と表示し、続けた。
『再生数:0 → 1』
第五章 配信と余韻
「リミッター落とす。NOW!」
香坂の合図で配信ラインが生きた。
「配信ライン生きた。残り00時間02分34秒で〆」藤本が報告する。
「上出来だ。で、VOIDからの呼び出しが23時。体力残ってる?」
「湊クンが呼び戻す前提で暴れます。俺はジャンキー、お前は鎖」
「離さないさ」香坂が微笑んだ。「ほら、マスター終了の花火が上がった。リスナーに届いたぞ」
スタジオ最上段のモニターで配信カウンターが”再生:1″を刻む。音が鳴らないはずのモニターから、正方向のドラム一拍だけが響いた。
送信ランプが点灯し、マスターが完了した。
「一番槍が来た」
「推しは裏切らない。俺らもな」
音が鳴らないはずのモニターから、正方向のドラム一拍だけが、静かなスタジオに響いた。二人はノイズの消えたマスターを黙って見届け、23時に向けてライトを落とした。
記録
備考: 「沈んだ太陽が、一拍だけ戻ってきた」
SBTタグ: 桜井ひまり 🌞 (反転 → 正常化)
波形: 全チャンネル正転
再生: 1
