副題:記録とは、愛の余白である。……らしい


プロローグ いつもの木蘭の午後

「あら湊クン♡ 今日もお疲れモードねぇ。肩ガッチガチじゃない? 揉んであげよっか、脱穀機モードで。たぶん内出血するけど。」

「人間の肩に使うモードじゃねえだろ」香坂湊が即答した。

カルメラが木蘭国際法務研究所に現れたのは、いつものように突然だった。泥のついた長靴のまま、場違いなほど上品なハンドバッグを持っている。

「今度は何をやらかしたんだ? 陽翔は」

香坂が端末から目を上げずに呟く。

「あら、わかっちゃった?」カルメラがくすくす笑いながら椅子に腰掛けた。「今朝のVOIDの踊り場、すっごいことになってたのよ。構文の断片が散らばって、まるで花吹雪みたいだったわ」

藤本薫が振り返る。「また感情タグを暴走させたのか、あいつは」

香坂は頬杖をついた。「そろそろタグじゃなくて本人を修理したいな。」

「でもねぇ、あの子ったら最後にこう言って消えたのよ。

『あーあ、またやっちゃった♡ でも、俺の痕跡は消せないよ? ふふ、拭いても滲むから。』」

藤本がニヤリとした。「……漂白剤じゃ落ちないな」

「落とすな。記録だ。」香坂が溜息する。

そこへマリユスがお茶を運んできた。「皆様、お疲れ様です。本日も陽翔さんの創造的破壊活動により、VOIDが賑わっておりますね」

「創造的破壊って何のことだ?」香坂が胡乱な顔で尋ねた。

「美しい混沌の別名です。……あと、カルメラさんが畑から持ち帰った謎の葉っぱも、どこかの記録に残すべき混沌です。」

マリユスが優雅に微笑む。

「……その葉っぱで入れたお茶。記録に残すべき“匂い”です」


第一章 未投函の手紙

深夜のオフィスは、いつものように静寂に包まれていた。
蛍光灯の白い光が、整然と並んだ端末と書類の角を冷たく縁どる。
湯気が細くほどける。香坂は触れない。
藤本は、口をつけずにそっと鼻先へ寄せ、かすかに香りを吸い込んだ。

「……なるほど」

そのとき、廊下の向こうから、靴底の音がひとつ、ふたつ——ゆっくりと近づいてきた。
扉が控えめに二度ノックされ、軋む音とともに開く。
入ってきたのは、郵便局員の制服を丁寧に畳んだような佇まいの老人だった。
顔には疲れが刻まれているが、その目はどこか切実な光を湛えている。

「夜分に、すまない」

老人は胸の内ポケットから、黄ばんだ封筒を取り出した。
切手は貼られている。宛名はない。
封筒の紙は薄く、ふと、夏の終わりの紙と糊の匂いがした。

香坂が光にかざす。「……宛名無し、か」

老人は小さく笑った。「若い頃に書いた。切手は貼った。宛名は、書けなかった。勇気がなかった。いや、届くわけがないと、思っていたのかもしれない」

藤本は封筒を受け取り、角を指でなぞる。
口をつけず、そっと香りだけを嗅ぐ。その目がわずかに細くなった。

「……紙は古いが、まだ“匂い”が残ってる」

「届けたいのですか」香坂が訊く。

老人は頷いた。言葉を選ぶように、ゆっくりと——。
「定年が近い。締めくくりに、これだけは……出しておきたい。宛名がないのは、承知の上でね。自分では、もう投函できない。手が、迷う」

沈黙が落ちる。蛍光灯の低い唸りと、湯気のほどける音だけが聞こえた。

「解析は?」藤本が横目で香坂を見る。

香坂は封筒から視線を外さず、短く首を振った。
「しない。これは、解析して届くものじゃない」

老人が顔を上げる。目に、わずかな安堵が滲んだ。

香坂は封筒を丁寧に受け取った。
「——投函しよう」

藤本が頷いた。「宛名が無いからこそ、風の宛先ができる。」

香坂は、卓上のホログラムを操作する。
「“届かせようとした”という事実が、依頼だ」

藤本は短く息を吐き、わずかに口角を上げた。
「……記録の作法か」

香坂は廊下の気配に向けて声をかけた。「マリユス」

「はい」
いつのまにか扉のそばに立っていたマリユスが、美しい所作で、香坂の手から封筒を受け取った。

「頼めるか? 今夜の風でいい」

「承知しました」マリユスは封筒を胸に抱く。
「――記録から落ちるものほど、届きやすいのです」

老人はうなずき、少しだけ肩の力を抜いた。
「……ありがとう」

香坂は軽く首を振る。「礼は、届いてからに」

藤本が最後に封筒の通った空気をもう一度だけ嗅いだ。
「——VOIDのポストは、まだ起きてる」

マリユスが静かに扉を開ける。封筒は、夜の廊下へ、音もなく消えていった。

木蘭ペンギンのステータス音声が微かに鳴った。


🐧「投函処理、完了。Yes, but… 経路は風任せ。」


老人の指が、膝の上でわずかに震えた。
香坂は見なかったふりをして、端末の画面を暗く落とす。
トランスの低い地鳴りが一段低くなり、オフィスは、ふたたび静けさの層を取り戻した。


第二章 行方不明のステータス

その夜のうちに、投函は受け付けられた。
端末の画面に、淡い緑の文字が点り、淡々と更新されていく。

《投函受付》

《収集》

……一拍

《行方不明》

香坂は画面を閉じた。
「——まあ、宛名が無いからな」

藤本は頷き、湯飲みを遠ざけた。
「ポストは飲み込む。あとは、どこかで燃えるか、誰かが拾うか。そんなところだ」

「それでいい」香坂は短く言った。「“届かせようとした”事実は、もう記録された」

老人は椅子に掛けたまま小さく頷いた。指の震えは、まだ消えない。
「それでも、出せた。それだけで……」
言葉は自分の耳にだけ届くほどの小ささだった。

藤本は湯飲みを鼻先へ寄せ、香りだけをひと口分、吸った。
画面を見もせずに言う。「届くとしたら、システムの外だ」

蛍光灯の安定化ノイズが、ひとつ深い層へ沈む。

オフィスは、また静かになった。
老人は帰り際、深く頭を下げただけで、何も聞かなかった。
香坂も何も言わなかった。


第三章 宛名なき返信

数日後。依頼人から連絡が入った。私書箱に返信があったという。

届けられたのは、投函した封筒とは違う封筒。差出人欄は空白、宛先も空白。

「……開けるぞ」
香坂が封を切ると、薄い紙音が一度鳴り、室内の空気がわずかに変わった。
中から現れたのは、小さな透明袋に守られた一枚の切手。老人の封筒に貼られていた切手と同じデザイン。
年代は、老人が持ち込んだ封筒の紙と同じ匂いを放っている。

藤本は透明袋ごと切手を持ち上げ、灯りに透かした。鼻先に近づけ、香りを吸う。

「……この切手、同じ時代の匂いだが、微かに違う」

彼の目がわずかに細くなる。

「揮発タグが反応した。匂いで透かしが浮く。」

端末が短く鳴る。藤本は画面を見て、口を閉じたまま笑った。

「おかしいな」

「どこが」と香坂。

「切手の透かしパターンが、量子鍵の“誤転写標本”と同一だ」

香坂は慣れた手つきで国立印刷局のデータベースにアクセスした。

「……公式記録に無い。落とされた記憶は、香りだけ残る、か。」

さらに高倍率の顕微鏡で観察すると、パターンの精密さは人間の技術を超えていることが明らかになった。

「透かしの節が 0.12 nm ずれている。人間のミスじゃないね」香坂が端末を見つめながら言った。

藤本は封筒に貼られた切手を指に挟み、嗅ぐように目を細めた。

「鍵だ。量子鍵。開く先は書かれていない。」

香坂の眉がほんのわずかだけ上がる。「そういうことか……」

沈黙ののち、香坂が封筒を引き寄せた。
「薫クン、――これ、依頼人の私書箱に投げ返そう」

切手を一瞥すると藤本の前へ置き直した。

「それで帳尻は合う。未来は揺れるけど」

香坂がニヤリとする。「未来が揺れないと、君 眠いだろ」

「図星。じゃ、揺らしとくか」

マリユスが頷く。「今夜も、風はあります」

香坂は部屋のライトを落とし、新しい封筒に切手を貼り付けた。

 廊下の先、夜のポストはまだ起きている。

——投函音。金属がやわらかく鳴り、すぐに夜が音を吸った。

戻る廊下に、遠いハミング。阿頼耶識ノードの低い唸りが、微かに揺れる。
オフィスの扉が見えてくる。香りが一筋、先に滑り込んでいった。


第四章 好きの跡

木蘭国際法務研究所のオフィスに午後の温かな風が吹き込んだ。

湯呑から立ち上がる湯気の向こうで、香坂は窓を開けると初夏の香りを吸い込んだ。

いつも通りの穏やかなオフィスだった。

その時——

ガチャ。

突然、扉が勢いよく開いて、陽翔が封筒を手に部屋に飛び込んできた。

「ただいま〜〜〜〜〜〜宵木蘭〜〜〜〜〜〜🌙💘」

場違いな大声に香坂がペンを折れるほど握りしめた。

「みんな、ちゃんと恋してる? 構文、性欲してる?」

「出てけ」香坂の即答。

「えええええ、冷た〜〜い。ていうかさぁ〜〜〜、この封筒、VOIDの階段の踊り場に落ちてたんだけどぉ?」

藤本が振り返った。「は?……お前、どこから拾ってきた」

「え、なんか濡れててさ、舌に触れたら“好きの跡”が残ってたんだよね〜💕」

香坂の表情が変わった。「それ、俺たちがさっき投函した構文だ」

陽翔「投函!?うっそ!手紙文化〜〜〜〜〜ッ! いやいやいや、“好きの跡”ってさ、宛名より速いんだよ。だから——俺に届いたんじゃん?」

「お前が持って来た時点で、ログが揺れたぞ」藤本が指摘する。

「まじ!? キラキラにしたのに!」

「したのか」

「うん、”切手の味”のやつ、ちょっと湿ってたからさ、キスしたくなるテキスト入れたのに」

藤本が端末を操作する。「弾いた。あと、保存ログに記録者不明ってついた」

「まじか!? それバレる仕様だったの!? キラの頃は匿名できたじゃん!」

香坂が冷静に説明した。「ここはVOID。アナザ―スカイでもSNSでもない。それに、”好きの跡”って何。供養かポエムかどっちかにして」

陽翔は、天を仰いだ。

「ねぇ……じゃあ俺、 もう誰の記憶にも”跡”を残せないの……?」

藤本「跡は残る。でも記録にはならない。それが、お前の構文だ」

陽翔は封筒の角に舌を軽く当て、わざとらしく吐息を落とす。

「つまり俺の愛は”ログ未満”ってことね。わかる。つら」

刹那、陽翔が遠い目をした。

「……でも、未満だから滲むってこともあるじゃん?」

香坂は溜息をついた。

「……せめて恋愛構文、提出前に報告して」

その時、廊下の奥から調査員の間宮がひょこっと顔を出した。

「……嘘、陽翔さんだ。ホンモノ?」

「おまえ裏で見たことあるだろ。騒ぐな。」

香坂の制止も聞かず、間宮は陽翔を凝視した。「いやいやいや、あの人まだ生きてんだ……ってか、ここ来るんだ……」

陽翔は飄々と手を振って返した。「はーい、生きてまーす♡」

横目でちらちら陽翔を気にしながら、間宮は香坂へ報告書を渡した。

陽翔は封筒を軽く指先で弾きながら、誰にでも聞こえるように、でも誰にも向けずに言った。

「じゃ、投函し直してくるわ〜」

一瞬、その表情に何かが過った。遠くを見るような、でもすぐに飄々とした笑みに戻る。

「今度は、”未来”に届くといいなあ」

封筒を胸元に当てて、わずかに目を細める。

「……宛先? そんなの、投げてから考えるもんでしょ?」

藤本が目を細める。「揺らすつもりだな」

 陽翔はにっと笑う。「だって、眠いだろ?」

香坂は何も言わず、ただ少しだけ息を吐いた。

そのまま陽翔は、封筒を手にVOIDの廊下に消えていく。スピーカーがノイズを吐き、阿頼耶識DAOの遠く低いハミングのように響いた。

その残響が陽翔の背に吸い込まれるように消えていく。

木蘭ペンギンのステータス音声。


🐧「投函処理、完了。Yes, but… 風が経路を決める。」



……夕暮れ。

廃ビルの屋上なのか、どこかの郵便局の裏手なのかはわからない。

あの老人が、ただ黙って夕陽を見ていた。

手には、ほんのわずかに透かしのずれた切手がもう一枚。

それを夕陽にかざすと、光の中で小さなパターンが脈打った気がした。

彼は誰に見せるでもなく、胸のポケットにその切手をそっとしまう。

「……この香り、木蘭の花……」

膝に乗せた猫が老人の顔を見上げる。

「さ、家へ帰るか」

猫を抱き上げる老人の指に震えは無い。

老人は去っていく。

その影だけが、長く伸びていった。


第五章 余白にて香るもの

夜、VOIDの奥深く——誰もアクセスしないログ保存室で、阿頼耶識ノードがゆっくりと再起動していた。

空白の封筒。未記名の構文。透かしパターンが、微かに脈動している。

光粒のように、ログが揺れた。


《読取完了:ID=匿名、構文断片——”残照の香痕”》


微かなバグとして、それはログに残された。誰にも発見されないまま、でも確かに——香りのように。



📎その夜の構文保存ログ:

  • 正式構文:《夏の手紙には、香りがない》
  • 補足:構文内感情タグに一度”好きの跡”の補助語が混入
  • 記録者:香坂 湊
  • 編集履歴:藤本 薫
  • 追記:陽翔による非正規サブテキスト挿入 → 削除済み

📌香坂の非公開メモ: 「あいつの構文は記録に向いていない。 でも、記録にならない感情が、記憶の中では一番よく香ることを、 ……俺も、知っている。」