10年勤続の記憶が、“存在しない”件について

投稿者: 香坂湊 投稿日:

午後1時08分、木蘭応接室。

申請区分:技能ビザ・更新申請不許可(調理師)

本人申告:「本国では10年以上、同じ中華料理店に勤務」

提出された営業許可証は──店名が違う。

「あの……これは、別の店の名前ですが」

「いえ!同じです!看板は変わりましたけど、店主は同じです!私、ずっとそこに!」

データベース上の履歴は、店名が三度変わっていた。

法人も変更され、代表者も途中で変わっている。

だが──本人の語る記憶は“ひとつながりの厨房”だった。

「厨房は……鉄の音がして、油がずっと熱くて、ずっと同じ床でした」

「“床”?」

「はい。床が……あれが、同じだから、同じ店なんです」

……言葉を失った。

制度が記録するのは、会社名・代表者・契約形態。

しかし彼が語る“職歴”は、油の匂い・鍋の重み・床の感触だった。

俺たちが扱ってるのは、記憶と記録の狭間にある生身の人間だ。

その間に生まれるのは、たいてい──誰のせいでもない齟齬だ。

その後の対応:

  • 店長の継続性を立証するため、現地の写真・SNS記録等を収集
  • 現地支援者より、店長は変わっていないとの証言取得
  • “記憶に基づく労働の連続性”を補足説明に明記して、上申書作成完了

記録終了:午後2時26分

備考:店舗の床は、10年間変わらなかった。

カテゴリー: 主任日誌