翻訳されなかった会話
午後3時過ぎ。
来客があった。予約なし。
穏やかな雰囲気の男だったが、どこか”時差ボケ”のような目をしていた。
名乗らず、ただ「ここで話をしてもいいですか?」と訊かれた。
香坂は「翻訳対象があれば」と答えたが、
男──(後で控えに『神谷』と書かれていた)──は、書類も音声データも持っていなかった。
それでも、神谷は話し始めた。
「私はね、他人の“未完の物語”を聞くのが好きなんですよ」
「翻訳者は、完成を急ぎすぎる」
「でも、未完成のまま、意味が崩れかけた場所にこそ、
本当の言葉が生きてると思うんです」
香坂はメモすら取らなかった。
ただ、横でペンギンが
無言で小さなアイスキャンディのホログラムを出していた。
🐧「主任、糖分です。思考が甘いときは甘いものを」
🐧「あとこの人、たぶんVOIDの誰かです」
10分話して、神谷は礼を言い、席を立った。
名刺も残さなかったが、ドアの外で立ち止まり、振り返って言った。
「翻訳じゃなくて、対訳をお願いしたかったんです」
「でも、どちらの言葉も、まだありませんでしたね」
📎備考:
“翻訳されなかった会話のなかに、
言葉の記憶はひっそりと沈んでいる。”
🔧藤本追記(勝手に書類の余白に走り書き):
「それ、あいつが話してたんじゃなくて、香坂の記憶だろ?」
「未完なのは、相手の物語じゃなくて、おまえ自身だよ」