この手紙を、読めるようにしてください
午前11時32分、文書翻訳業務。
提出されたのは、20代の女性による英語への翻訳依頼。
原文は日本語で書かれていた。
宛先は、生まれてから一度も会ったことのない父。
現在、某国に在住。会う予定は、今のところないとのこと。
「読まれなくてもいいんです。
でも、自分が書いた言葉を、相手の言葉で並べてみたかっただけで」
文章には、“伝わってしまってもいい”と、“伝わらなくてもいい”の両方が混在していた。
翻訳作業中、VOID経由でペンギンホログラムが割り込んでくる。
表示された文字列:「父という単語に、所有格は必要ですか?」
返答は不要と判断し、静かに接続を切る。
文末に近づくほど、感情の温度が上がっていた。
あえて全体のトーンを平坦に保つように調整。
訳語は、語感よりも“逃げ道”を優先して選定した。
藤本から、勝手にプリントアウトされた草稿が机に置かれていた。
紙は香の匂いがし、行間に鉛筆で何かの数式が書かれていたため、破棄。
依頼人には、翻訳文とともに、希望があれば音読データも作成可能である旨を伝達。
「声で残すことも、伝える方法のひとつです」と添えたが、返答はなかった。
📎備考:
“この手紙が届いたとき、彼が読める言語は、まだ英語のままだろうか。
それとも、ただ『娘からの手紙』として、読むのか。”