“がん”という単語を訳すとき
午後2時14分、翻訳業務。
依頼内容:英語で書かれた医療診断書の翻訳。
受取人は、本人ではなく、その娘さんだった。
診断名:Stage 4, metastatic cancer(転移性がん・第4期)
「この文書、日本語にして母に渡したいんです」
「……内容は把握されていますか?」
「一応。でも、英語が得意じゃないので……」
“でも”の後に、少し間があった。
たぶん、本当はわかっていて、でも言葉にできない状態なんだろう。
診断書の翻訳は、ただの言い換えじゃない。
とくに医療文書では、**“告知そのものを渡す”**ことになる。
訳語1つで、伝わり方が変わる。
「『がん』でいいですか?
それとも、もう少しやわらかい表現にしましょうか?」
彼女はしばらく迷って、
「……はっきり書いてください。その方が本人も覚悟できると思います」と答えた。
訳文の末尾に、1行だけ補足を入れた。
“本書は診断結果を示すものであり、最終的な治療判断を促すものではありません”
訳者の立場を越えているのは承知のうえ。
でも、少しでも未来の会話が穏やかになるように──俺はそう思った。
📎備考:
“翻訳者は、ときどき“伝えるべきでない言葉”を翻訳する。
でも、それでも言葉を選ぶことは、誰かを守る行為になる。”